歴史並び替え問題 江戸時代
投稿者:池畠 悠 所属塾:みやうち塾 閲覧数:349
投稿日時:2022年9月4日15:00
最終閲覧日時:2025年5月22日13:42
こだなか塾
今日は、 江戸時代の出来事の流れをまとめていきます。
武家諸法度
享保の改革
生類憐みの令
新井白石の政治
天保の改革
寛政の改革
鎖国完成
田沼の政治
では江戸時代の流れを確認していきましょう。
今回の範囲のスタートは、朱印船貿易です。
朱印船貿易は江戸時代の最初に、徳川家康が行いました。
1600年、関ヶ原の戦いに勝利した徳川家康は、1603年に征夷大将軍に即位します。
その後260年続く、江戸幕府の基礎を作っていきます。
と言っても実は、家康はすぐに将軍職を、 息子の秀忠に譲ります。そして大御所として政治を行います。
秀忠の 死後、徳川家光が3代将軍に着任します。
家光は武家諸法度を定め、 一国一城の例などを定めます。
また1635年には、参勤交代の制を追加します。
この参勤交代の結果、大名は、江戸と領地を交代で住まなければいけなくなり、特に遠くに住んでいた外様大名は、出費がかさみ経済力を削られました。
幕府は当初、外国との貿易を積極的に行なっていました。
貿易を行う商人に対して、朱印状と呼ばれる許可状を与え、貿易による利益の一部を税金として課す代わりに、貿易を保護しました。
この朱印船貿易では、日本銀・銅・漆器などを輸出し、生糸・絹織物・鹿皮・蘇木・砂糖などを輸入しました。
著名な朱印船貿易家には長崎代官だった末次平蔵、大坂の住吉孫左右衛門、京都の角倉了以・茶屋四郎次郎などがいます。
またこの朱印船貿易は、南蛮貿易とは違うもので、主に東南アジアの国との貿易を指します。
(南蛮貿易はヨーロッパです。)
そして、朱印船貿易で東南アジアに移り住んだ人々が、日本町を作ります。
例として、タイ(シャム)のアユタヤにあった日本町の指導者の山田長政がいます。
しかし、朱印船貿易、そして南蛮貿易は、 江戸時代の前半にしか行われていません。
理由は、イエズス会によるキリスト教の布教活動が活発になり、そのことに対して幕府が脅威を抱いたからです。
日本がヨーロッパの植民地になってしまうこと、またキリシタン大名の反乱を恐れました。
そこで、1612年に徳川家康がキリスト教の禁教令を発令します。
さらに、1616年、ヨーロッパ船の来航地を、長崎と平戸に限定します。
その後も1624年、スペイン船の来航を禁止し、1635年には、日本人が海外に渡航することを禁止します。
これをもって朱印船貿易は終わりを迎えます。
そんな中、 島原天草一揆が起こります。この一揆は、飢饉にもかかわらず重い年貢を徴収し、しかもキリスト教を強く弾圧した領主に対して、農民たちが起こした一揆です。
天草四郎という少年を大将として約37000人の人々が、幕府・藩の連合軍と戦います。(1637年)。
この戦いは幕府側の勝利に終わりますが、キリスト教に対して恐怖心を強めた幕府は、さらに取り締まりを強めます。
1639年にはポルトガル船の来航を禁止し、ヨーロッパで唯一貿易を続けていたオランダに関しても、商館を出島に移し、出島以外での貿易を禁止します。(1641年)
これを持って鎖国が完成します。
ただし鎖国と言っても、 全く海外と関わっていないわけではなく、アジアの国々とは引き続き貿易を行っていました。
しかし、幕府が長崎での貿易と海外の情報を独占していたため、国民に対しては海外からの情報が入りにくくなっていました。
3代将軍徳川家光の後で重要になってくるのは、 5代将軍の徳川綱吉です。
綱吉は幕府への忠誠心を強めるため、湯島聖堂を作り儒学を盛んにしました。
また、生類憐れみの令でも有名ですが、 「ダメな将軍」 として評価されることが多いです。
綱吉は他にも、貨幣改鋳を行っています。この貨幣改鋳は、 銀の含有率を大きく下げた貨幣を作ることで、幕府の収入を増加させようとしたものです。
しかし、このことがインフレーションを引き起こし、物価が上昇して人々の暮らしは苦しくなりました。
この状況を打開するため、6・7代将軍の老中となった新井白石は、再び貨幣改鋳を行い、貨幣の質を元に戻しました。
さらに長崎での貿易を制限して金や銀の流出を抑えました。
新井白石は1710年頃、活躍した人物だと覚えておきましょう。
新井白石の後、1740年頃に、享保の改革が進められます。この改革は、徳川吉宗が将軍自ら行なった改革です。
享保の改革の内容として、下記内容を覚えておいてください。
・上げ米の制
・ 目安箱の設置
・公事方御定書
・ 年貢納入を検見法から定免法へ変更
・町奉行大岡忠相など、優秀な人材の登用
・実学の症例
この享保の改革は成功します。 幕府の財政も安定しました。
しかし、享保の改革の後また幕府財政は悪化します。
そこで老中田沼意次は、商業政策を中心とした田沼の政治を行います。( 1775年から1785年頃)
田沼の政治では、年貢だけに頼る財政政策からの脱却を目指し、 商品を売って、「お金を稼ぐ」ことで財政を安定させようとしました。
具体的な内容は下記の通りです。
・株仲間を奨励して営業税を増加
・長崎貿易の奨励(銅や俵物を輸出しました)
・銅の専売強化
・ 蝦夷地の開拓
しかし、株仲間の奨励は、賄賂を盛んにしてしまいました。というのも、株仲間は幕府に認められてもらうことで営業権が独占できる仕組みなので、幕府の役人に対して賄賂をするようになったからです。
また1782年には、浅間山の噴火や天明の飢饉が起こります。
そのため、 打ちこわしや一揆が多発し、田沼の政治は行き詰まりました。
田沼意次の後に老中になった松平定信は、 寛政の改革を行います。(1785年から1795年頃)
寛政の改革は、 田沼の政治の反省を生かし、貨幣ではなく「米」によって財政を安定させるとしました。
まず、田沼の政治を反省し、質素倹約を行うことを一番の目標にしました。
また、 貨幣経済の浸透による農村の荒廃が幕府の年貢による税収を減らしていると考え、
享保の改革を模倣して、農村の復興を目指しました。
具体的な内容は下記の通りです。
・倹約令
・ 旧里帰農令(農村の復興を図るために、都市に出稼ぎに出ていた農民たちに、 農村に帰ることを要求しました。)
・棄捐令(農民たちの借金の帳消し)
・ 囲い米の制(飢饉に備えて米を備蓄することを命じました。)
・寛政異学の禁(朱子学以外の学問を禁止しました。)
この寛政の改革は、出版物の統制など厳しい内容であったため、人々の不満を高めました。
このあとも幕府は、財政政策に失敗します。一番の理由は、貨幣経済が浸透しているのに、農村を基準とした税収体制を変えることができなかったからです。
貨幣経済の浸透により、農村では借金をして生活が苦しくなっていく農民が増えます。地主や商人の中には、その農民たちを利用して、工場を運営する者も現れました。
出稼ぎの農民たちを一箇所に集め、分業と協業によって製品を大量生産する、 工場制手工業(マニファクチャ)を行うようになったのです。
また、海外からの開国の要求が相次ぎ、 大きな変化を求められます。
(1792年には、ラクスマンがロシアから来航し貿易を求めますが、 松平定信はこれを拒否します。)
技術革新とグローバル化によって、 世の中が変わったけれども、政府の政策が変わらなかったからうまくいかなかった、と理解しておいてください。
この状況下において、幕府政治を立て直すため、老中水野忠邦は、 天保の改革を行います。具体的な内容は下記の通りです。
・株仲間の解散
・人返しの法(旧里帰農令と同じです。)
・ 三方領地替え 失敗
・上知令(江戸・ 大阪の土地五十五万石、幕府の直轄地にするように命じました。)これも失敗します。
※三方領地替えに関して
川越藩(いまの埼玉県)と庄内藩(山形県)と長岡藩(新潟県)の三藩を対象とし、
川越藩の大名が庄内藩にうつり、庄内藩の大名が長岡藩にうつり、長岡藩の大名が川越藩にうつるという、領土の入れ替えを断行しました。
なぜ、そんなことをしたかというと、その頃の川越藩は、江戸に外国船が入ってこないか見張る役目である相模(神奈川県)の海岸防備の役目をしていました。それには、とてもお金がかりましたし、川越はそこまで豊かな土地でもなかったので、荷が重すぎるだろう、ということで、お米がたくさん収穫できる庄内に移したのです。
しかし、農民の猛反対を受け、失敗します。
この世に天保の改革はほとんどうまくいかず、水野忠邦は老中を罷免させられました。
この後はペリーが来航し、いよいよ江戸幕府が終焉を迎えていきます。
よって答えは、
1604から1635まで 朱印船貿易
1615~1635年頃に基盤が作られる 武家諸法度
1641年 鎖国完成
1710年頃 新井白石の政治
1740年頃 享保の改革
1775~85年 田沼の政治
1785~95年 寛政の改革
1840~42年 天保の改革
でした。
朱印船貿易と武家諸法度は微妙なところですが、朱印船貿易のがスタート先なので答えは先にしています。
流れを理解してほしいのでこの二つを同時に出しましたが、 実際のテストではこのような問題は出ないと思います。
あくまで流れを理解していきましょう。