宮内中2年生 歴史 総復習並び替え2連続
投稿者:池畠 悠 所属塾:みやうち塾 閲覧数:245
投稿日時:2022年9月2日7:58
最終閲覧日時:2026年3月11日17:05
みやうち塾
こだなか塾
最後、2年生はこの並び替えを。(ぎりぎりですがリクエストいただいたのでアップします!)
今日の歴史並べ替えは、 1年生の範囲です。
ここまで、2、3年生の内容が中心だったので、1年生の範囲を復習します。
次の出来事を時代順に並べ替えてください。
遣唐使廃止
平安京遷都
保元の乱
摂関政治全盛
白河上皇の院政
平治の乱
密教伝来
壇ノ浦の戦い
では今回の範囲をまとめていきます。
時代で言うと今回は平安時代の流れをまとめることになります。
平安時代は794年の平安京遷都から、1185年あるいは1192年に鎌倉幕府が成立するまで続きます。
(1185年が壇ノ浦の戦い→守護・地頭の設置、1192年に、源頼朝が征夷大将軍になります。)
ということで今回のスタートは、794年の平安京遷都からです。
平安京に都を遷都したのは桓武天皇ですが、実はその10年前の784年に、長岡京に都が作られています。
しかしこの長岡京遷都の際には、都の造営を中心的に進めていた藤原種継が 暗殺されます。
これを受けて場所を変え平安京に都が移されます。
この頃、桓武天皇は、蝦夷(今のアイヌ民族の方々の祖先です)を平定するために、征夷大将軍という役職を作り、坂上田村麻呂を任命します。
「征夷」の意味は、 「蝦夷」を征するという意味で、武士の棟梁という意味は特にありませんでした。しかし。後に源頼朝や足利尊氏、徳川家康がこの役職を用いて幕府を開きます。
坂上田村麻呂は、 蝦夷を倒すために、多賀城を築いて拠点としました。そして、最後には蝦夷の棟梁であるアテルイを倒し、東北地方を日本の領土に広げました。
その後806年頃に、空海と最澄が、日本に密教を伝えに行きます。(密教伝来)
密教というのは仏教の一派です。イメージは、火を使って修行をする仏教です。修行と言うと滝に打たれたりを入れるかもしれませんが(滝は曹洞宗です)、密教の場合は火の中で汗をかきながら護摩修行をします。
この密教を伝えた二人を紹介します。
空海は真言宗を開きました。場所は高野山の金剛峯寺です。空海は弘法大師とも呼ばれ、字がとても上手だったことで有名です。
橘逸勢・嵯峨天皇・空海の三人で、三筆と呼ばれます。
また、「弘法も筆の誤り」ということわざの弘法は、空海のことです。
最澄は天台宗を開きました。 場所は比叡山延暦寺です。最澄は伝教大師とも呼ばれました。
ここから平安時代の初期は、天皇中心の時代が続きます。
醍醐天皇、村上天皇の延喜・天暦の治が有名です。(840年ごろ)
しかし天皇の力は徐々に衰えていき、代わりに、貴族が力を持つようになります。
中でも他の貴族を押しのけて高い身分を独占したのが藤原氏です。
(これを他氏排斥運動と言います。)
藤原氏の先祖は、中臣鎌足です。中臣鎌足が藤原鎌足になった後、藤原不比等、藤原四氏(北家・南家・式家・京家)、そして、北家を継いだ良房・基経と続きます。
この藤原氏が全盛時代を迎えるのが、藤原道長・頼通の時代です。
ちょうど西暦1000年頃と覚えておいてください。
藤原氏は、摂関政治を行って政治の実権を握りました。
ではここで質問です。
摂関政治とは何でしょうか。
摂関政治というのは、 天皇が幼い頃は摂政、年をとったら関白の位につき、摂政や関白が天皇の代わりに政治の実権を握った政治のことです。
ではここでまた質問が出ると思います。
どうして藤原氏は摂政や関白といったような高い身分に就くことができたのでしょうか。
理由は二つあります。
一つ目は、日本各地に荘園を持ち、財力を持っていたからです。 743年の墾田永年私財法が発令された後、貴族たちは農民を使って私有地を広げました。
この私有地を荘園と言います。
藤原氏はこの荘園を全国各地に持っており、莫大な財力を保有していました。
二つ目は、 一つ目の理由と関連しますが、天皇の外戚となったことです。
外戚というのは、血の繋がっていない親戚のことです。
藤原氏は、 自分の娘を天皇と結婚させます。すると藤原氏は天皇と、 血の繋がっていない親戚になることができます。
(天皇からそれは藤原氏は、 義理のお父さん、という形になります)
天皇からすれば義理のお父さんにはなかなか頭が上がらないところもあると思います。(笑)
この立場を利用して、天皇が幼い頃は摂政に、大きくなったら関白に就任して、政治の実権を握ったのです。
この摂関政治に対して天皇は当然面白く思いません。
そこで1086年、白河天皇が天皇を退き、上皇という位を作ります。
上皇になると、摂政や関白は影響力を持つことができません。
なぜなら摂政や関白は、 あくまでも天皇の代わりに政治を行うのであって、上皇については記述がないからです。
白河天皇はこの上皇として、裏から政治を動かしました。
この時に上皇が住んでいた場所を院と呼んだので、「 院政」と言います。
摂政・関白、天皇、上皇と、多くの身分ができてくると、 権力争いが生まれます。
これが1156年の保元の乱です。
この保元の乱で天皇と上皇が戦います。
このとき各貴族たちはどちら側につくかで割れます。
さらにこの時、戦争に初めて参加したのが、 武士です。
ここまで歴史の表舞台に武士は出てきていませんが、この保元の乱で、天皇や上皇が武士を使います。
中でも、 当時最強と言われていた二つの武士団、平氏と源氏が参戦します。
ただしこの時は平氏対源氏の戦いになってはいません。理由としては、お家断絶のリスクを避けるために、平氏も源氏も、一族で二つに分かれて戦ったからです。
当時の戦いでは負けた方は、一家全員が奴隷になるか死刑になる、という風習がありました。
つまりこの戦いに勝てればいいですが、負ければ一家全員死んでしまいます。
それを避けるために、父と息子、兄と弟で別れて戦いました。
これをすることで、どちらが勝ったとしても、一家を守ることができます。
そしてこの戦いの3年後、生き残った平氏と源氏が、一騎打ちをします。
これが1159年の平治の乱です。
この平治の乱で、 平清盛が率いる平氏が勝利します。
その後清盛は、 太政大臣の地位につき、政治の中枢を担います。
さらに、兵庫にあった貿易港である大輪田の泊を拠点とし、日宋貿易を独占します。
当時は、「兵士にあらずんば人にあらず」と言われるぐらい兵士は栄えていました。
しかしそれも長くは続きません。
平治の乱の時に、 まだ幼かった、という理由で死刑を免れ、東北地方に逃げていた源頼朝と義経が、平氏に対して反旗を翻します。
最初の戦いである一ノ谷の戦いで勝利した源氏は、兵士を西に追いやっていき、屋島の戦い、そして壇ノ浦の戦いに勝利し、平氏を滅ぼします。
これが1185年の出来事です。
この後頼朝は、兵士の領土奪い取り、戦いに協力してくれた「御恩」として、御家人たちを守護・地頭に任命します。
ここからが鎌倉時代です。
最後にまだ一つだけ触れていない選択肢があります。
それが遣唐使廃止です。
遣唐使廃止を建議したのは菅原道真です。
894に、衰退する唐に遣唐使を送ることは経済的に見合わない、として、遣唐使を廃止します。
この後、 中国からの情報が入ってこなくなり、国風文化が栄えます。
国風文化としては、かな文字が広まったことで文学が盛んになります。
清少納言の枕草子、紫式部の源氏物語、紀貫之の土佐日記は有名です。
また、初の勅撰和歌集である、古今和歌集を覚えておいてください。
以上から答えは、
平安京遷都
密教伝来
遣唐使廃止
摂関政治全盛
白河上皇の院政
保元の乱
平治の乱
壇ノ浦の戦い
でした。
時代の流れをきちんと理解して覚えていきましょう。
歴史並び替え
今回は、鎌倉・室町の流れを確認します。
次の出来事を時代順に並べ替えてください。
勘合貿易
元寇
永仁の徳政令
鎌倉幕府滅亡
東山文化
承久の乱
建武の新政
応仁の乱
今回の出来事のスタートは、承久の乱です。
承久の乱は1221年に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して起こした反乱です。
1192年に源頼朝は征夷大将軍になりました。
その後基盤を固めて行き、御恩と奉公に基づく関係で全国の御家人を統治しました。
しかし頼朝の死後、幕府の求心力は弱まっていきます。
この状況を鑑みた後鳥羽上皇は、幕府に対して反乱を起こします。
最初は朝廷自らの出兵ということもあり、後鳥羽上皇側の圧勝に終わるかと思われました。
しかし、頼朝の妻である北条政子が、全国の御家人達に対して手紙を送ります。
その手紙の内容は簡単に言うと、
「 今こうして豊かな暮らしができているのも、 今は無き頼朝公のおかげではないか。
頼朝公から頂いた、海よりも深く山よりも高い御恩を忘れたのか。
今こそ奉公をする時ではないか。」
という内容です。
この話を受けて御家人たちは、 確かにその通りだ。
今こそ、御恩を返す時だ。
と考え直し、 幕府側に着きます。その結果僕が勝利し、後鳥羽上皇の土地は没収され、上皇は今の島根県の隠岐の島に島流しになりました。
この承久の乱によって、幕府の勢力は西国の朝廷の領土にまで及び、幕府は全国を統一することになりました。
また朝廷を監視するため、 六波羅探題を設置しました。さらにこの戦いの後、北条政子の子孫である北条氏が実権を握り、執権として政治を行いました。
1232年には、執権北条泰時が、御成敗式目を制定します。
御成敗式目は、これまでの慣習にのっとって作られた、初めての明文化された法律で、 この後の揉め事に関しては、御成敗式目に基づいて裁決されるようになりました。
こうして承久の乱をきっかけに鎌倉幕府はその基盤を盤石なものにしていきます。
しかしその基盤を揺るがす事件が起こります。
それが元寇です。
1274年、そして1281年に、モンゴル帝国が日本に攻めてきます。
モンゴル帝国は、チンギスハンが全国を統一した後、小さなブロックに分類されていました。
当時中国をまとめていたのは、元という国でしたが、この国はチンギスハンの孫にあたるフビライハンが統治していました。
このフビライハンが日本に対して属国になることを要求しに来たのです。
それを拒否した日本は、元との戦闘になります。
1274年を文永の役、1281年を弘安の役と呼びます。
元軍は、集団戦法やてつはう(火薬)といった、当時の日本にはない戦闘手段をつかってきますが、台風などの幸運にも恵まれ、日本は元を追い払うことに成功します。
これで鎌倉幕府は安泰かと思いましたが、この元寇をきっかけに鎌倉幕府は滅亡に向かっていきます。
というのも、元軍を追い払ってくれた御家人たちに対して、 御恩として分け与えるべき土地がなかったのです。
今回は単に、元軍を追い払っただけであり、平氏や朝廷との戦いの時のように、相手の土地を奪い取って御家人に分け与えるということができませんでした。
御恩をもらえない御家人たちは当然不満を持ちます。
しかも戦争に際して、武器などを調達するために借金までしている人もいます。
こういった人たちは、借金を返すことができなくなってしまうため、生活が苦しくなってしまいました。
そこで元寇の頃から執権として政治を行っている北条時宗は、永仁の徳政令(1298年)を出し、御家人たちの救済を図ります。
しかしこの永仁の徳政令で、御家人たちは以後借金ができなくなり、返って生活が苦しくなりました。
中には、御家人をやめて悪党と呼ばれる反幕府グループを組織するようになる者も出てきました。
(楠木正成は、この悪党のリーダーです。)
こうした状況をチャンスと考えて、当時の天皇である後醍醐天皇は、反幕府を掲げて挙兵します。
さらに御家人の重役であった足利尊氏や新田義貞も幕府に対して反旗を翻し、
1333年に鎌倉幕府は滅亡します。
幕府が滅亡した後、 後醍醐天皇が政治を行います。
これを建武の新政と言います。
後醍醐天皇は平安時代に国をまとめた醍醐天皇の政治を目指しました。
そのため政治の中身は、天皇や貴族を中心としたものでした。
しかし今は武士の時代です。時代遅れの政策はうまくいくはずもなく、武士たちの反感を受けます。
足利尊氏は、武士たちを率いて後醍醐天皇を倒しに行きます。足利尊氏は後醍醐天皇倒し、自らを征夷大将軍として幕府を開こうと考えていました。
しかし、後醍醐天皇は今の奈良県の吉野に逃げてしまいました。
そこで足利尊氏は、 光明天皇を即位させ、自らを征夷大将軍に指名させます。
そのため、奈良には後醍醐天皇が、 京都には光明天皇がいるという状況に陥ってしまいました。
この時、天皇が二人いるので、南北朝時代と呼ばれています。
南北朝時代が統一されたのが、1392年のことです。
足利義満が仲介をし、後亀山天皇(南朝)が後小松天皇(北朝)に皇位を譲る形で一本化されました。
3代将軍足利義満は他にも、勘合貿易を行い、北山文化を栄えさせました。
勘合貿易は明との貿易において、正式な貿易船と倭寇という海賊を見極めるために、勘合という合い札が用いられたためこの名前がつきました。
また足利義満は京都の室町に金閣寺を建てました。この金閣寺を中心とした豪華荘厳な文化を、北山文化と言います。
北山文化に対して8代将軍足利義政が栄えさせたのが、東山文化です。
東山文化は水墨画、石庭、 書院造といった、日本の文化の原型となっています。
このように八代将軍足利義政は文化的には優れていました。
しかし跡継ぎをきちんと決めないなど、政治的には優れてはいませんでした。
義政が跡継ぎを決めなかったため、後継者争いが起こります。
これが応仁の乱です。
この応仁の乱は1467年から10年間続きます。
幕府の重役であった細川勝元と山名宗全が戦います。
しかし決着はつかず、 この戦争をきっかけとして、幕府の力は衰退し戦国大名たちが名乗りを上げるようになります。
以上から答えは、
1221年 承久の乱
1274・1281年元寇
1298年 永仁の徳政令
1333年 鎌倉幕府滅亡
1333年~1335年 建武の新政
1392年頃 勘合貿易
1450年頃 東山文化
1467~77年 応仁の乱
でした。