10月29日 歴史並び替え 解説でサクッと復習。第一次世界大戦前後の流れです。

投稿者:池畠 悠 所属塾:みやうち塾 閲覧数:184


投稿日時:2021年10月29日10:35

最終閲覧日時:2025年8月26日9:51


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今回は、第一次世界大戦前後の流れをまとめたいと思います。

次の出来事を時代順に並び替えてください。

ソビエト社会主義共和国連邦成立

辛亥革命

二十一カ条の要求

五・四運動

パリ講和会議

サラエボ事件

ソ連の単独講和

ワシントン会議


では、各出来事の詳細を確認していきましょう。


今回の範囲のスタートは辛亥革命です。

辛亥革命は、1911年に、清で起こった革命です。

孫文が、 三民主義(民族、民生、 民権の三つを重視することを掲げました。)を唱え、中華民国を設立しました。


この中華民国はその後すぐ、袁世凱が首相として統治していきます。

二十一か条の要求を受け入れたことで袁世凱はクーデターにあいますが、その後を継いだ蒋介石が率いていき、 第二次世界大戦が終わるまで中国とは、中華民国のことです。

ちなみに、現在の台湾は、この中華民国です。(現在の中国は、 毛沢東が率いた中国共産党が統治しています。)


次に起こるのが、サラエボ事件です。

このサラエボ事件をきっかけとして、第1次世界大戦が勃発します。


今回は第1次世界大戦の流れを詳しく見ていきましょう。

セルビアの青年がオーストリアの皇太子を暗殺したことからこの戦いは始まります。

オーストリアはセルビアに対して宣戦布告し、同じゲルマン民族であるドイツもオーストリアに加勢します。

一方セルビアは、スラブ民族の国家です。そこで、 同じスラブ民族であるロシアに助けを求めます。

ロシアは加勢し、さらに、ここをドイツを叩くチャンスと考えたフランス・イギリスも、三国協商を理由に加勢します。


ちなみにこの時イタリアは、 中立の立場を取ります。イタリアは三国同盟を結んでいたので、ドイツ・オーストリア側につくかと思われますが、戦局が読めないため、むやみにドイツ側についたりはしませんでした。

その後戦局がドイツ側に不利とわかると連合国側にて参戦します。

その他の参戦国としては、ロシアの南下政策に対抗したいと考えていたトルコがドイツ側で参戦します。

日本も日英同盟を理由に、連合軍側で参戦します。(1914年)

とはいえ日本がヨーロッパまで戦いに行くわけではなく、中国の山東半島にある青島・膠州湾におけるドイツの植民地を攻撃します。


この戦いに日本は勝利し、ドイツの権益を奪い取ります。そしてドイツの代わりに中国に対して、二十一カ条の要求を行います。(1915年)

内容は下記の通りです。



・ドイツ帝国が山東省に持っていた権益を大日本帝国が継承すること
・関東州の租借期限を延長すること
・南満州鉄道の権益期限を延長すること
・沿岸部を外国に割譲しないこと


要するに中国に対して、ドイツの権益をまるごと日本によこせ、 さらに領土もよこせ、と要求しました。


ちなみに、中国の当時の首相は袁世凱です。


この二十一か条の要求をのんだことを非難され、クーデターにあいます。


そして1916年には戦死してしまいます。


日本が山東半島にて戦いを繰り広げている頃、大戦の中心地であるヨーロッパでは、ドイツがロシアを追い詰めていました。


しかし、1915年のイタリアの参戦、 食料・資源の不足、ロシアの寒さなどによって、ドイツ・オーストリアの同盟軍は、徐々に後退していきます。

( 特にドイツの食料問題は深刻で、国内でもジャガイモやパンなどの値段が高騰していました。)


1917年には、ドイツの潜水艦作戦を受けて、アメリカがドイツと国交を断交します。アメリカは、 第1次世界大戦を、民主主義国家の十字軍戦争と考えており、自分たちも民主主義側で参戦すべき考えていました。

そして1917年に、連合国側で参戦します。

これにて戦局は、連合国側の勝利が決定的となりました。


しかしこの時、ロシアでロシア革命が起こります。

ロシアでは、 戦争による出費・被害、さらに食料不足によって、国民生活は非常に苦しいものとなっていました。


社会主義の思想を持つレーニンは、苦しい生活をしていた農民たちを救うため、ソビエトという、小さな自治組織を作ります。


このソビエト内では、農民たちが助け合いながら暮らしています。そしてこのソビエトを単位として国家を作るべきだと考え、それとまとめた一つの国を構想します。

これが後のソビエト社会主義共和国連邦です。

ソビエトをまとめたレーニンは、ロシア革命を成功させ、ロシア皇帝を倒します。


そして、同盟国側に対して、 無条件の講和を、単独で、申し入れます。

(単独というのは、まだイギリスフランスなどの国は戦争していますが、ロシアは戦争が終わろうが続こうがもう参加しない、だから単独で講和させてくれという意味です。無条件というのは、特に賠償金、領土も必要ない、とにかくすぐに戦争を止める、ということです。)



ロシアは世界大戦から脱退しましたが、連合国が有利の状況は変わらず、ドイツの降伏をもって大戦は終結します。

ちなみに、 第1次世界大戦はいつ終わったのかについては、意見が割れます。講和会議が開かれてからも一部地域では戦争が続いており、不戦協定が結ばれた1918年という説もあれば、ベルサイユ条約が結ばれた1919年とする人もいます。

なので戦争終結の年号を正確に覚える必要はありません。

1919年1月 パリ講和会議

1919年6月 ベルサイユ条約

と覚えておいてください。


この第1次世界大戦の後で、ドイツ帝国、オーストリア=ハンガリー帝国、 オスマン帝国、ロシア帝国の4帝国が解体されます。

ドイツに関しては、ベルサイユ条約でかなり厳しい賠償請求をされ、国民はその借金に苦しみます。

ベルサイユ条約の内容としては下記を覚えておいてください。

・多額の賠償金
・領土縮小(アルザス・ロレーヌ地方など)
・植民地没収
・軍備縮小


この多額の賠償金に苦しんだだめ、多額の紙幣を発行します。しかし、紙幣乱発がインフレーションを引き起こし、ドイツ経済は混乱。これが第二次世界大戦を招く要因になったとも言われています。

また、オスマン帝国の後で、 トルコ共和国が建国されます。


ロシアに関しては、ソビエトが政権を掌握します。


その後、資本主義国家からの干渉戦争を受けますが、1922年に、 ソビエト社会主義共和国連邦が建国されます。



この第1次世界大戦では、1000万人を超える死者が出ました。このことを深く反省し、ウィルソンの十四カ条の平和原則を基本とし、国際連盟が結成されます。


しかし、 国際連盟には、提案したアメリカが議会の反対を受けて参加できなかったり、ソ連は参加していなかったり、後に日本やドイツが脱退することもあって、 影響力はそれほど強くありませんでした。


ウィルソンの十四カ条の平和原則の中には、民族自決という考えがありました。

この考えに触発されて、 世界各地で独立運動が起こります。

朝鮮では、1919年の3月1日に、三・一独立運動が起こります。

中国でも、1919年5月4日、日本の二十一カ条要求への反対、独立運動として、 五・四運動が起こります。

日本政府はこれらを鎮圧しますが、国際的にも、日本の植民地政策に対する警戒は高まります。

そこで、アメリカは、1922年にワシントン会議を開き、日本の植民地縮小、 太平洋の平和維持の話し合いをいます。

このワシントン会議で、日本は、第一次世界対戦の時に奪い取ったドイツ権益(青島など)を中国に返還します。




以上が第1次世界大戦後の流れです。
よって答えは、


1911年 辛亥革命


1914年 サラエボ事件

1915年 二十一カ条の要求

1917年 ソ連の単独講和


1919年 パリ講和会議

1919年 五・四運動

1921~1922 ワシントン会議 

1922年12月30日 ソビエト社会主義共和国連邦成立



です。

ここも非常に細かいところなので、何度も確認しましょう。