11月4日 歴史並び替え(幕末の流れをサクッと復習!!!)

投稿者:池畠 悠 所属塾:みやうち塾 閲覧数:207


投稿日時:2021年11月4日15:49

最終閲覧日時:2025年8月26日17:30


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今回は幕末の流れについて並べ替えをしたいと思います。

2年生の一番最後の範囲です。


薩長同盟

桜田門外の変

大政奉還

安政の大獄

薩英戦争

大塩平八朗の乱

外国船打ち払い令

天保の改革


今回の出来事のスタートは、外国船打ち払い令です。

1825年、幕府は開国を要求してくる他国に対して、外国船打ち払い令を出します。

日本の近くに来た外国船は打ち払う、という指令です。

この外国船打ち払い令によって、海外の外国船を打ち払うことができるようになりました。

しかし、これがとんでもないことだと政府は気付きます。

それが、アヘン戦争です。

1840~42年、アヘン戦争が起こり、欧米列強国の圧倒的な軍事力を見せられます。

これをみて、幕府は外国船打ち払い令を取り下げ、外国と協調路線へ切り替えていくのです。

そして、日米和親条約、日米修好通商条約を結ぶことになります。


また、この頃から、江戸幕府の力は弱まっていきます。

理由は、外国が日本に開国を迫て来たことと、もう一つは、貨幣経済の浸透により、経済の仕組みが変わったことです。

江戸時代は、年貢に代表されるように、お米を中心として経済が回っていました。

しかし、農村で商品作物が作られるようになると、農民もお金を稼ぐようになります。

すると、その稼いだお金で他の農民の土地を買ったり(地主)、逆にさらに借金をして苦しくなったため、土地を手放す農民が出てきます。

その結果、幕府の税収の基盤である農民がお米を作らなくなり、税収が減少してしまいます。
この農村の没落を防ぐため、幕府は旧里帰農令や人返しの法を出して、都市に出てきた農民を農村に返し、コメを作らせようとしました。

この幕府の権威の喪失を象徴するのが、大塩平八郎の乱です。

大塩平八郎は旗本という役職でした。旗本というのはかなり身分の高い武士でしたが、その武士が幕府の政策に不満を感じ反乱を起こしました。

それだけ、幕府の権威が弱まっていた、ということでこの事件は重要です。

幕府も状況を打破しようと、1840年に天保の改革を行います。

まず、株仲間を解散させ、お金ではなくお米による経済体制に戻そうとしますが、結局失敗に終わります。
理由は、株仲間からの税収減は幕府の収入減少にもつながり、

また、禁止されても株仲間主体の経済体制は変わらないので、幕府の税収が減っただけで状況は好転しませんでした。
(経済の仕組みが変わろうとしていたのに、政府が古い仕組みから抜け出せなかった、という良い例です。時代の変化には逆らえませんでした。)

また、三方領地替えという政策も、(江戸と大阪の領土を入れ替えるという政策です)失敗に終わります。
その後、先程書いたように、日米和親条約を結んで開国、そして不平等条約である日米修好通商条約を結びます。
どう不平等化というと、

関税自主権がなく、領事裁判権を認める、という内容でした。
この日米修好通商条約を結んだ井伊直弼は、多くの武士たちから批判されます。
それに対して、井伊直弼は批判した武士たちを処刑する安政の大獄を行います。

この安政の大獄で、吉田松陰や橋本佐内が処刑されます。

こうした井伊直弼に対する批判は強まり、井伊直弼も、桜田門外の変(1860年)で暗殺されます。


こうして、日本社会は混沌に陥ります。

そんな中、世の中を尊王攘夷という考えが席巻します。

尊王攘夷というのは、
外国人を排斥し(攘夷)、天皇中心の世の中を作ろう(尊王)という考えで、経済力のあった長州藩を中心に巻き起こります。
こうした中、生麦事件から薩英戦争が起こります。

生麦事件というのは、大名行列を横切ったイギリス人を、薩摩の武士が切り捨てた事件です。日本では、大名行列を横切ることはご法度であり、武士には切り捨て御免という権利があり、御法度をした人を無条件で切っていいという権利を持っていました。

そこで武士は日本の慣習に従ってイギリス人を斬り殺したのですが、これに対して当然イギリス人は怒ります。

そして薩英戦争に発展します。

この戦争で薩摩は善戦しますが、最後はイギリスに負けてしまいます。

同じ頃、長州藩も、 下関の近くを通った外国船を砲撃するという事件を起こします。

これに対して、アメリカ・ イギリス・フランス・オランダの4カ国が、下関の砲台を襲撃し、 占領するという事態に発展します。

薩英戦争の敗北と、長州藩の下関砲台の占領事件を受けて、攘夷は不可能であるということを悟ります。

そして、 攘夷の前にまずは、 国力を高める必要がある、そして国力を高めるには、幕府を倒し天皇中心の国家を築く必要があるという考えに変化していきます。

では倒幕を成し遂げるために何をすればいいかということですが、当時最も力を持っていた、薩摩藩と長州藩が手を組む必要がありました。

というのも薩摩と長州は非常に仲が悪く、(薩摩は幕府側で、 幕府の指示のもと長州征伐を行っていました。そのため長州藩は薩摩藩を幕府よりも恨んでいました。)同盟は不可能と思われていました。

しかし、倒幕を成し遂げるには薩長同盟が必ず必要になります。

このように考えた土佐藩出身の坂本龍馬は、長州のリーダーである木戸孝允と薩摩のリーダーである西郷隆盛を仲介し、薩長同盟 を結ばせます。
この薩長同盟に対して、当時の江戸幕府将軍徳川慶喜は、無理に戦うより、政権を明け渡す方が賢明だと考えます。
ここで戦争になれば、幕府が勝てる可能性は低いです。
一方、もしここで政権を明け渡せば、新政府側も、慶喜の功績を称えて、新しい政府の重役を担えると考えたからです。

そして、1867年、大政奉還がなされます。これは待って約260年続いた江戸幕府は終焉を迎え、明治政府による新しい統治が始まります。

以上が大政奉還まで流れです。

よって答えは
1825年 外国船打ち払い令
1837年 大塩平八朗の乱
1840年頃 天保の改革
1858~1859年 安政の大獄
1860年 桜田門外の変
1863年 薩英戦争
1867年 薩長同盟
1867年 大政奉還

以上です。
幕末も細いので、流れをしっかりまとめていきましょう。