歴史並び替え 鎌倉から室町
投稿者:池畠 悠 所属塾:みやうち塾 閲覧数:184
投稿日時:2024年2月5日13:52
最終閲覧日時:2025年5月5日12:53
こだなか塾
今回は、鎌倉・室町の流れを確認します。
次の出来事を時代順に並べ替えてください。
勘合貿易
元寇
永仁の徳政令
鎌倉幕府滅亡
東山文化
承久の乱
建武の新政
応仁の乱
今回の出来事のスタートは、承久の乱です。
承久の乱は1221年に、後鳥羽上皇が鎌倉幕府に対して起こした反乱です。
1192年に源頼朝は征夷大将軍になりました。
その後基盤を固めて行き、御恩と奉公に基づく関係で全国の御家人を統治しました。
しかし頼朝の死後、幕府の求心力は弱まっていきます。
この状況を鑑みた後鳥羽上皇は、幕府に対して反乱を起こします。
最初は朝廷自らの出兵ということもあり、後鳥羽上皇側の圧勝に終わるかと思われました。
しかし、頼朝の妻である北条政子が、全国の御家人達に対して手紙を送ります。
その手紙の内容は簡単に言うと、
「 今こうして豊かな暮らしができているのも、 今は無き頼朝公のおかげではないか。
頼朝公から頂いた、海よりも深く山よりも高い御恩を忘れたのか。
今こそ奉公をする時ではないか。」
という内容です。
この話を受けて御家人たちは、 確かにその通りだ。
今こそ、御恩を返す時だ。
と考え直し、 幕府側に着きます。その結果僕が勝利し、後鳥羽上皇の土地は没収され、上皇は今の島根県の隠岐の島に島流しになりました。
この承久の乱によって、幕府の勢力は西国の朝廷の領土にまで及び、幕府は全国を統一することになりました。
また朝廷を監視するため、 六波羅探題を設置しました。さらにこの戦いの後、北条政子の子孫である北条氏が実権を握り、執権として政治を行いました。
1232年には、執権北条泰時が、御成敗式目を制定します。
御成敗式目は、これまでの慣習にのっとって作られた、初めての明文化された法律で、 この後の揉め事に関しては、御成敗式目に基づいて裁決されるようになりました。
こうして承久の乱をきっかけに鎌倉幕府はその基盤を盤石なものにしていきます。
しかしその基盤を揺るがす事件が起こります。
それが元寇です。
1274年、そして1281年に、モンゴル帝国が日本に攻めてきます。
モンゴル帝国は、チンギスハンが全国を統一した後、小さなブロックに分類されていました。
当時中国をまとめていたのは、元という国でしたが、この国はチンギスハンの孫にあたるフビライハンが統治していました。
このフビライハンが日本に対して属国になることを要求しに来たのです。
それを拒否した日本は、元との戦闘になります。
1274年を文永の役、1281年を弘安の役と呼びます。
元軍は、集団戦法やてつはう(火薬)といった、当時の日本にはない戦闘手段をつかってきますが、台風などの幸運にも恵まれ、日本は元を追い払うことに成功します。
これで鎌倉幕府は安泰かと思いましたが、この元寇をきっかけに鎌倉幕府は滅亡に向かっていきます。
というのも、元軍を追い払ってくれた御家人たちに対して、 御恩として分け与えるべき土地がなかったのです。
今回は単に、元軍を追い払っただけであり、平氏や朝廷との戦いの時のように、相手の土地を奪い取って御家人に分け与えるということができませんでした。
御恩をもらえない御家人たちは当然不満を持ちます。
しかも戦争に際して、武器などを調達するために借金までしている人もいます。
こういった人たちは、借金を返すことができなくなってしまうため、生活が苦しくなってしまいました。
そこで元寇の頃から執権として政治を行っている北条時宗は、永仁の徳政令(1298年)を出し、御家人たちの救済を図ります。
しかしこの永仁の徳政令で、御家人たちは以後借金ができなくなり、返って生活が苦しくなりました。
中には、御家人をやめて悪党と呼ばれる反幕府グループを組織するようになる者も出てきました。
(楠木正成は、この悪党のリーダーです。)
こうした状況をチャンスと考えて、当時の天皇である後醍醐天皇は、反幕府を掲げて挙兵します。
さらに御家人の重役であった足利尊氏や新田義貞も幕府に対して反旗を翻し、
1333年に鎌倉幕府は滅亡します。
幕府が滅亡した後、 後醍醐天皇が政治を行います。
これを建武の新政と言います。
後醍醐天皇は平安時代に国をまとめた醍醐天皇の政治を目指しました。
そのため政治の中身は、天皇や貴族を中心としたものでした。
しかし今は武士の時代です。時代遅れの政策はうまくいくはずもなく、武士たちの反感を受けます。
足利尊氏は、武士たちを率いて後醍醐天皇を倒しに行きます。足利尊氏は後醍醐天皇倒し、自らを征夷大将軍として幕府を開こうと考えていました。
しかし、後醍醐天皇は今の奈良県の吉野に逃げてしまいました。
そこで足利尊氏は、 光明天皇を即位させ、自らを征夷大将軍に指名させます。
そのため、奈良には後醍醐天皇が、 京都には光明天皇がいるという状況に陥ってしまいました。
この時、天皇が二人いるので、南北朝時代と呼ばれています。
南北朝時代が統一されたのが、1392年のことです。
足利義満が仲介をし、後亀山天皇(南朝)が後小松天皇(北朝)に皇位を譲る形で一本化されました。
3代将軍足利義満は他にも、勘合貿易を行い、北山文化を栄えさせました。
勘合貿易は明との貿易において、正式な貿易船と倭寇という海賊を見極めるために、勘合という合い札が用いられたためこの名前がつきました。
また足利義満は京都の室町に金閣寺を建てました。この金閣寺を中心とした豪華荘厳な文化を、北山文化と言います。
北山文化に対して8代将軍足利義政が栄えさせたのが、東山文化です。
東山文化は水墨画、石庭、 書院造といった、日本の文化の原型となっています。
このように八代将軍足利義政は文化的には優れていました。
しかし跡継ぎをきちんと決めないなど、政治的には優れてはいませんでした。
義政が跡継ぎを決めなかったため、後継者争いが起こります。
これが応仁の乱です。
この応仁の乱は1467年から10年間続きます。
幕府の重役であった細川勝元と山名宗全が戦います。
しかし決着はつかず、 この戦争をきっかけとして、幕府の力は衰退し戦国大名たちが名乗りを上げるようになります。
以上から答えは、
1221年 承久の乱
1274・1281年元寇
1298年 永仁の徳政令
1333年 鎌倉幕府滅亡
1333年~1335年 建武の新政
1392年頃 勘合貿易
1450年頃 東山文化
1467~77年 応仁の乱
でした。
しっかり復習しましょう。