投稿者:池畠 悠 所属塾:みやうち塾 閲覧数:225
投稿日時:2021年11月15日15:01
最終閲覧日時:2025年8月27日3:48
みやうち塾 こだなか塾 ハイファイブ S-Live ユーカリが丘
今日の歴史並べ替えは、 1年生の範囲です。
ここまで、2、3年生の内容が中心だったので、1年生の範囲を復習します。
次の出来事を時代順に並べ替えてください。
遣唐使廃止
平安京遷都
保元の乱
摂関政治全盛
白河上皇の院政
平治の乱
密教伝来
壇ノ浦の戦い
では今回の範囲をまとめていきます。
時代で言うと今回は平安時代の流れをまとめることになります。
平安時代は794年の平安京遷都から、1185年あるいは1192年に鎌倉幕府が成立するまで続きます。
(1185年が壇ノ浦の戦い→守護・地頭の設置、1192年に、源頼朝が征夷大将軍になります。)
ということで今回のスタートは、794年の平安京遷都からです。
平安京に都を遷都したのは桓武天皇ですが、実はその10年前の784年に、長岡京に都が作られています。
しかしこの長岡京遷都の際には、都の造営を中心的に進めていた藤原種継が 暗殺されます。
これを受けて場所を変え平安京に都が移されます。
この頃、桓武天皇は、蝦夷(今のアイヌ民族の方々の祖先です)を平定するために、征夷大将軍という役職を作り、坂上田村麻呂を任命します。
「征夷」の意味は、 「蝦夷」を征するという意味で、武士の棟梁という意味は特にありませんでした。しかし。後に源頼朝や足利尊氏、徳川家康がこの役職を用いて幕府を開きます。
坂上田村麻呂は、 蝦夷を倒すために、多賀城を築いて拠点としました。そして、最後には蝦夷の棟梁であるアテルイを倒し、東北地方を日本の領土に広げました。
その後806年頃に、空海と最澄が、日本に密教を伝えに行きます。(密教伝来)
密教というのは仏教の一派です。イメージは、火を使って修行をする仏教です。修行と言うと滝に打たれたりを入れるかもしれませんが(滝は曹洞宗です)、密教の場合は火の中で汗をかきながら護摩修行をします。
この密教を伝えた二人を紹介します。
空海は真言宗を開きました。場所は高野山の金剛峯寺です。空海は弘法大師とも呼ばれ、字がとても上手だったことで有名です。
橘逸勢・嵯峨天皇・空海の三人で、三筆と呼ばれます。
また、「弘法も筆の誤り」ということわざの弘法は、空海のことです。
最澄は天台宗を開きました。 場所は比叡山延暦寺です。最澄は伝教大師とも呼ばれました。
ここから平安時代の初期は、天皇中心の時代が続きます。
醍醐天皇、村上天皇の延喜・天暦の治が有名です。(840年ごろ)
しかし天皇の力は徐々に衰えていき、代わりに、貴族が力を持つようになります。
中でも他の貴族を押しのけて高い身分を独占したのが藤原氏です。
(これを他氏排斥運動と言います。)
藤原氏の先祖は、中臣鎌足です。中臣鎌足が藤原鎌足になった後、藤原不比等、藤原四氏(北家・南家・式家・京家)、そして、北家を継いだ良房・基経と続きます。
この藤原氏が全盛時代を迎えるのが、藤原道長・頼通の時代です。
ちょうど西暦1000年頃と覚えておいてください。
藤原氏は、摂関政治を行って政治の実権を握りました。
ではここで質問です。
摂関政治とは何でしょうか。
摂関政治というのは、 天皇が幼い頃は摂政、年をとったら関白の位につき、摂政や関白が天皇の代わりに政治の実権を握った政治のことです。
ではここでまた質問が出ると思います。
どうして藤原氏は摂政や関白といったような高い身分に就くことができたのでしょうか。
理由は二つあります。
一つ目は、日本各地に荘園を持ち、財力を持っていたからです。 743年の墾田永年私財法が発令された後、貴族たちは農民を使って私有地を広げました。
この私有地を荘園と言います。
藤原氏はこの荘園を全国各地に持っており、莫大な財力を保有していました。
二つ目は、 一つ目の理由と関連しますが、天皇の外戚となったことです。
外戚というのは、血の繋がっていない親戚のことです。
藤原氏は、 自分の娘を天皇と結婚させます。すると藤原氏は天皇と、 血の繋がっていない親戚になることができます。
(天皇からそれは藤原氏は、 義理のお父さん、という形になります)
天皇からすれば義理のお父さんにはなかなか頭が上がらないところもあると思います。(笑)
この立場を利用して、天皇が幼い頃は摂政に、大きくなったら関白に就任して、政治の実権を握ったのです。
この摂関政治に対して天皇は当然面白く思いません。
そこで1086年、白河天皇が天皇を退き、上皇という位を作ります。
上皇になると、摂政や関白は影響力を持つことができません。
なぜなら摂政や関白は、 あくまでも天皇の代わりに政治を行うのであって、上皇については記述がないからです。
白河天皇はこの上皇として、裏から政治を動かしました。
この時に上皇が住んでいた場所を院と呼んだので、「 院政」と言います。
摂政・関白、天皇、上皇と、多くの身分ができてくると、 権力争いが生まれます。
これが1156年の保元の乱です。
この保元の乱で天皇と上皇が戦います。
このとき各貴族たちはどちら側につくかで割れます。
さらにこの時、戦争に初めて参加したのが、 武士です。
ここまで歴史の表舞台に武士は出てきていませんが、この保元の乱で、天皇や上皇が武士を使います。
中でも、 当時最強と言われていた二つの武士団、平氏と源氏が参戦します。
ただしこの時は平氏対源氏の戦いになってはいません。理由としては、お家断絶のリスクを避けるために、平氏も源氏も、一族で二つに分かれて戦ったからです。
当時の戦いでは負けた方は、一家全員が奴隷になるか死刑になる、という風習がありました。
つまりこの戦いに勝てればいいですが、負ければ一家全員死んでしまいます。
それを避けるために、父と息子、兄と弟で別れて戦いました。
これをすることで、どちらが勝ったとしても、一家を守ることができます。
そしてこの戦いの3年後、生き残った平氏と源氏が、一騎打ちをします。
これが1159年の平治の乱です。
この平治の乱で、 平清盛が率いる平氏が勝利します。
その後清盛は、 太政大臣の地位につき、政治の中枢を担います。
さらに、兵庫にあった貿易港である大輪田の泊を拠点とし、日宋貿易を独占します。
当時は、「兵士にあらずんば人にあらず」と言われるぐらい兵士は栄えていました。
しかしそれも長くは続きません。
平治の乱の時に、 まだ幼かった、という理由で死刑を免れ、東北地方に逃げていた源頼朝と義経が、平氏に対して反旗を翻します。
最初の戦いである一ノ谷の戦いで勝利した源氏は、兵士を西に追いやっていき、屋島の戦い、そして壇ノ浦の戦いに勝利し、平氏を滅ぼします。
これが1185年の出来事です。
この後頼朝は、兵士の領土奪い取り、戦いに協力してくれた「御恩」として、御家人たちを守護・地頭に任命します。
ここからが鎌倉時代です。
最後にまだ一つだけ触れていない選択肢があります。
それが遣唐使廃止です。
遣唐使廃止を建議したのは菅原道真です。
894に、衰退する唐に遣唐使を送ることは経済的に見合わない、として、遣唐使を廃止します。
この後、 中国からの情報が入ってこなくなり、国風文化が栄えます。
国風文化としては、かな文字が広まったことで文学が盛んになります。
清少納言の枕草子、紫式部の源氏物語、紀貫之の土佐日記は有名です。
また、初の勅撰和歌集である、古今和歌集を覚えておいてください。
以上から答えは、
平安京遷都
密教伝来
遣唐使廃止
摂関政治全盛
白河上皇の院政
保元の乱
平治の乱
壇ノ浦の戦い
でした。
時代の流れをきちんと理解して覚えていきましょう。