投稿者:池畠 悠 所属塾:みやうち塾 閲覧数:333
投稿日時:2021年11月2日11:01
最終閲覧日時:2025年8月26日15:10
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今日は、 自由民権運動中心に、並べ替えをしたいと思います。
次の出来事を時代順に並び替えてください。
第1回帝国議会
民撰議院設立の建白書
自由党結成
大日本帝国憲法
征韓論争
立憲改進党を結成
内閣設立
国会期成同盟
解説
まず自由民権運動で重要になってくる人物は、板垣退助です。
この板垣が中心となって自由民権運動が成し遂げられました成し遂げられました。
1874年、征韓論争に敗れた板垣退助は、政界を去ります。
その後、 政府の藩閥政治を批判し 、日本が近代化を進めるためには、民主国家を作る必要があり、そのために国会の開設は必要不可欠だと主張しました。
そして、1874年、民撰議院設立の建白書を政府に提出します。
しかし政府はこれを 拒否したため、板垣は抗議運動起こします。
この抗議運動は取り締まられてしまいます。板垣が集会を取り締まりに来た警察官に撃たれてしまう、という事件も起こります。
この時に板垣が言った「板垣死すとも自由は死せず」の言葉は有名ですね。
しかし板垣退助は この時はまだ一命をとりとめました。
そして1880年、国会期成同盟を結成し、国会開設を強く要求、さらに私擬憲法草案も提出します。
私擬憲法草案というのは、私的に作った憲法の原案のことです。この憲法草案を元に、日本の憲法を作る、そして国会を開設しよう、 と提案したわけです。
しかしこれも政府には受理されません。
そんな中、 明治十四年の政変という事件が起こります。
この明治十四年の政変について簡単にまとめます。
北海道開拓使の黒田清隆が、同じ地元出身の五代友厚 に、格安で国が所有している会社を売っていた、という事実が発覚します。
これを、 大隈重信が批判します。
これに対して、伊藤博文らは、大隈はいちいち敵対してくるのでやりにくいと感じました。(もう少し細いですが、ざっくり言うとこういうことです)
そこで大隈重信を罷免します。
しかし、 国が所有している会社を安く売った、(今で言う、政治とカネの問題ですね)という事実を批判し、自由民権運動は加熱します。
これを抑えるため、政府は10年後の国会開設を約束します。
これを受けて、国会期成同盟は、自由党へと発展します。(1881年)
さらに、大隈重信も、 立憲改進党を設立します。(1882年)
このように、10年後の国会開設に向けて、 着々と準備がなされていきます。
1885年には、 初代内閣が結成されます。この時の初代内閣総理大臣が、 伊藤博文です。まずは内閣を作り、国会開設に向けて、運営面を整えていく必要があると考えました。
さらに、 1889年に大日本帝国憲法が作られます。大日本帝国憲法は、君主権の強いプロイセンの憲法を模して作られました。そのため、主権は天皇にありますが、 部分的には、国民の基本的人権が認められていました。
そして、1890年。約束通り、第1回帝国議会が開かれます。この帝国議会では、有権者は、満25歳以上の男子のみ、 直接国税15円以上、条件がありました。そのため、全人口の1.1%しか有権者はいませんでした。
しかし、この一連の自由民権運動によって、日本も立憲国家、天皇主権のもとでの議会制国家へと進展しました。
以上から答えは、
1874年 征韓論争
1874年 民撰議院設立の建白書
1880年 国会期成同盟
1881年 自由党結成
1882年 立憲改進党を結成
1885年 内閣設立
1889年 大日本帝国憲法
1890年 第1回帝国議会
です。
明治の流れは複雑なので、 テーマごとに理解していきましょう。