投稿者:池畠 悠 所属塾:みやうち塾 閲覧数:192
投稿日時:2021年10月28日14:56
最終閲覧日時:2025年8月26日9:48
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今回は、2年生範囲の歴史の出来事を並び替えてきたいと思います。
第一次護憲運動
サラエボ事件
世界恐慌
日露戦争
三国干渉
日清戦争
義和団事件
昭和恐慌
今回は割と広い範囲の並べ替えの問題になります。
スタートは日清戦争です。日清戦争は、朝鮮をめぐる日本と清の争いが具現化したものです。
朝鮮内部では、日本に近づこうという親日派と、清との関係を大事にしていこうという親清派の二つのグループがありました。
この二つのグループの争いは、結局、親清派の勝利に終わります。
これに対して日本は、 朝鮮における自国の影響力が弱まることを懸念していました。
そんな中、1894年に 甲午農民戦争が起こります。
これは朝鮮で起こった農民の暴動で、朝鮮政府に対して東学党というグループが反乱を起こしました。
朝鮮政府はこれを止めることができず、清に対して助けを求めます。
日本も朝鮮への影響力を守るために、甲午農民戦争を止めるという理由で出兵します。
甲午農民戦争は止まるのですが、そのまま日本対清の戦争に発展しまったのが日清戦争です。
日清戦争は日本の勝利に終わります。その後日本は下関条約を結び、清に対して不平等な契約を押し付けます。
下関条約の内容をまとめます。
・賠償金がある
・遼東半島の割譲
・台湾・澎湖諸島の割譲
・朝鮮の独立を認める
・日本への最恵国待遇
といった内容です。
朝鮮の独立を認めるというのは、朝鮮は独立した国だから、もう清は手を出すな、後は日本が統治する、ということを意味しています。
その後日本は朝鮮の影響力を高めることを目指していきます。
しかしこれに対して、ある国が警戒してきます。
それはロシアです。
ロシアは南下政策を進めており、日本が朝鮮における影響力を強めることを危惧していました。
そこでドイツ・フランスと組んで、遼東半島を清に返すように要求してきます。(三国干渉)
大国からの要求を断ることもできず、日本は渋々承諾します。
この三国干渉の後、日本はロシアへの敵対心を高めます。
この時に生まれた言葉が臥薪嘗胆というものです。冷たい薪の上に臥して、肝を嘗めることになったとしても、ロシアに勝とう、と思っていることを表しています。
そんな中、1900年に、義和団事件が起こります。
これは、 中国で起こった外国人排斥運動ですが、止めることができなかった中国政府は、海外諸国に応援を要請します。
鎮圧に駆けつけた軍隊の国別の内訳はイギリス、アメリカ、ロシア、フランス、ドイツ、オーストリア=ハンガリー、イタリアら欧米七列強と日本です。
義和団による反乱は止められますが、ロシアだけが清に残り続けます。
このロシアの動きに対して日本は抗議しますが、 ロシアは応じません。
日本は同じように、ロシアの南下政策に対して脅威を抱いているイギリスと手を結び、(日英同盟、1902年)ロシアの動きに備えます。
そして1904年、 朝鮮半島をめぐるロシアとの交渉がうまくいかなかったため、 外交断絶を宣言し、日露戦争に至ります。
日露戦争は日本の善戦があり、両軍の力は拮抗しますが、戦力的に日本は限界を迎えていました。またロシアでもロシア革命が起こり、戦争の継続は困難な状況になっていました。
そこでアメリカの仲介で、ポーツマス条約を結び(アメリカの都市)、戦争は終わります。
ポーツマス条約の内容を確認しましょう。
・朝鮮における日本の優越権
・遼東半島の租借権
・ 南樺太の割譲
・ 南満州鉄道の譲渡
このように、戦争の本来の目的であった遼東半島を取り戻すことに成功しました。しかし、賠償金はもらえませんでした。
このことから日露戦争は、引き分けといわれています。
また、この賠償金がないことに対して、日比谷焼き討ち事件が起こります。
しかしこの日露戦争をきっかけに、日本は国際的な地位を高めます。アジアの一小国から、欧米列強の仲間入りを果たしたのです。
この日露戦争の10年後、第1次世界大戦が起こります。
第1次世界大戦で重要なことは、 大戦の前に、ヨーロッパで経済的、宗教的、民族的な対立があったことです。
経済的 三国協商(ロシア・フランス・イギリス) VS 三国同盟(ドイツ・オーストリア・イタリア)
民族 スラブ、ゲルマン、ラテン
宗教 カトリック、プロテスタント、正教会、イスラム教
このように、対立が階層的になっていたヨーロッパの状態を象徴する場所がありました。
それがバルカン半島です。
そこでバルカン半島のことを、「ヨーロッパの火薬庫」と呼びます。
このバルカン半島のサラエボ(セルビアという国の都市です)で起こったのがサラエボ事件です。
まず前提として、オーストリアがセルビアを植民地にしていました。
このセルビアの都市であるサラエボをオーストリアの皇太子が歩いていたのですが、これに対して怒りを覚えたセルビアの少年が、 オーストリアの皇太子を暗殺します。
これがサラエボ事件です。
その後同じスラヴ人として、ロシアがセルビアを助けにきます。今度は同じゲルマン民族として、ドイツがオーストリアを助けにいきます。
その結果戦争が拡大していき、第1次世界対戦が勃発しました。(1914年)
これで今回の選択肢はある程度に並べ替えられると思いますが、第一次護憲運動と昭和恐慌、世界恐慌が残っているので説明します。
第一次護憲運動は、1912年に桂太郎内閣が行った藩閥政治を批判することから始まります。
藩閥政治というのは、明治維新の功労国である、 薩摩長州の出身者で政治の重役を占領し、官僚的に行う政治のことです。
これに対して、尾崎行雄、犬養毅らが反発します。この専制政治に対する反対運動が、ラジオを通して国民にも広まっていき、大きなデモにつながります。
その結果、桂太郎内閣は、退陣に追い込まれてしまいます。
このように、 憲法違反した藩閥政治がきちんと取り締まられ、憲法が守られたので、「護憲運動」といいます。
ちなみに第一次護憲運動とあるので、第二次もあります。
次に昭和恐慌です。
これは1920年代後半に起こった、豊作によるデフレがもたらした恐慌です。
農村において、 豊作になることは嬉しいことです。しかし、豊作になってたくさんの食べ物が市場に出回ってしまうと、値段は下がっていきます。
その結果、安くなりすぎて、 売っても売っても利益が出ないという状況になってしまいます。
これがデフレーションです。
作物の価格がどんどん下がってしまい、農村の暮らしは苦しくなってしまいました。
この出来事を昭和恐慌と言います。
さらにこの後は世界恐慌が起こりますね。
世界恐慌は1929年、 ニューヨークの株価の暴落から始まった世界的な不況のことです。
必ず覚えておいてください。
以上から、 答えは
日清戦争
三国干渉
義和団事件
日露戦争
第一次護憲運動
サラエボ事件
昭和恐慌
世界恐慌
でした。
色々なパターンの並べ替えに挑戦していきましょう。