11月18日 歴史並び替え(飛鳥・奈良を総復習!!!)
投稿者:池畠 悠 所属塾:みやうち塾 閲覧数:202
投稿日時:2021年11月18日15:57
最終閲覧日時:2025年8月27日9:03
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今日は飛鳥・奈良時代の歴史を振り返りたいと思います。
大宝律令
墾田永年私財法
大化の改新
和同開珎鋳造
十七条の憲法
平城京遷都
班田収授法発令
鑑真来日
今回の出来事のスタートは十七条の憲法からです。
十七条の憲法を制定したのは聖徳太子です。
聖徳太子は600年頃、で覚えとしてと思います。具体的にやったこととしては、下記の項目を覚えましょう。
・推古天皇の摂政(593年)
・十七条の憲法
・冠位十二階の制
・遣隋使(607年)
・法隆寺造営
聖徳太子の政策の柱は、天皇中心の国づくりです。
聖徳太子は天皇を中心として豪族をまとめ、中央集権的な国家の基盤を築きました。
豪族たちに対して役人としての心得を説いた十七条の憲法や、豪族たちの役職が一目でわかるように、官位に応じて色分けをした冠を授けた冠位十二階の制といった政策を打ち出し、豪族を取りまとめました。
また、当時の中国の王朝である隋に対して、遣隋使を派遣しました。
この遣隋使に際して、隋に対して朝貢をする、というのではなく、あくまでも対等な立場として貿易を行いました。
このような強気な外交が取れた背景として、当時の隋は、北にいる遊牧民族からの攻撃や、朝鮮半島の高句麗からの攻撃を受けており、日本に対しては敵対関係を築きたくない状況にあったことが挙げられます。
このような国際情勢を見抜いて強気な外交を行った聖徳太子は、やはり優れた人物だということができます。
このように聖徳太子は中央集権的な国づくりの基盤を築きましたが、若くして亡くなってしまいます。
聖徳太子の死後、力を持ったのが蘇我氏です。富樫は冠位十二階の制が発令された時にも、官位をもらう側ではなく、聖徳太子とともに授ける側にありました。
このように権力を持っていた蘇我氏が、聖徳太子の死後、さらに暴走してしまいます。
このような状況を鑑みて、中大兄皇子は、蘇我氏を倒すことを決意します。そして中臣鎌足と組んで、蘇我馬子・入鹿を暗殺します。
そして、もう一度豪族たちの支配を強固なものにし、天皇中心の国づくりを図ります。
蘇我氏の暗殺から国の改革までを含めた一連の流れを、大化の改新と言います。(645年で覚えましょう。)
中大兄皇子が行った改革は、「公地公民」としてまとめられます。
公地は、土地を公のものにするという意味で、公民は、人を公のものにするという意味です。
つまり、土地も人も国のもの。国のものということは、日本の王であるこの中大兄皇子のものだから、税金をよこせ、ということで、税の仕組みを再編します。
このとき作られた税の仕組みが、租・調・庸制です。
租は、お米を徴収する税です。
まず、 6歳以上の男女に、お米を作るために必要な土地として、口分田を授けます。そして収穫量の3%を、 税として納めさせます。その口分田の耕作者が亡くなった場合は、その土地を回収し、また次の世代に分配するという仕組みです。
この仕組みを班田収授法と呼びます。
調は、地方の特産品を徴収する税です。 各地方の特産品として、 海産物や塩などの納税を義務付けました。
庸は、役所の掃除をしたりする労役の提供を義務付けた税です。
庸の場合は、畿内での労役を、その他、地方の役所での労役に関しては、雑徭で義務付けました。
しかし、庸と調に関しては、負担が重かったために、麻布を納税することで免除することを認めていました。
この、租・調・庸制と並んでもう一つ大事なのが、国・郡・里制です。
日本全国をまとめるために、まず、 中央にいる貴族たちを、国司として地方に派遣します。
その国司たちが今度は、地方の有力豪族たちを、郡司として任命します。今度は郡司たちが、有力農民たちを里長として任命します。
そして、里長達が農民たちの税をまとめて集め、その税を 郡司 → 国司 → 天皇 という流れで徴収しました。
このように、中大兄皇子によって中央集権化が進みます。また中大兄皇子は後に、天智天皇と言われています。
中央集権化を進めた天智天皇は、日本と親交の深かった百済を守るため、白村江の戦いに出兵します。(663年)
しかしこの戦いに敗れてしまい、 天智天皇もなくなります。
(この白村江の戦いの後、朝鮮から大軍が攻めてきた時に備えて、水城を設置し、防人という九州の警備をする労役を農民にも課しました。そして、 太宰府という約束を設置し、北九州の防備を固めました。)
天智天皇の死後、 後継者争いである壬申の乱が起こります。
壬申の乱では、 天智天皇の息子である大友皇子と、 天智天皇の弟である大海人王子が戦います。
戦いに勝った大海人王子は、 天武天皇として中央集権化を進めていきます。
その後の中央集権化の流れは下記の通りです。
684年 藤原京(持統天皇)
701年 大宝律令
708年 和同開珎
710年 平城京
国家とし必要な、法律・貨幣・都が整備されます。
そして都が平城京に移ってからを、奈良時代と呼びます。
奈良時代は、人口増加に伴って社会不安が増大した時代です。
人口増加は良いように思えるかもしれません。( 今は少子化が問題になっていますね。)
しかし当時は、 人口が増えすぎて食料がなくなるという問題に直面していました。
班田収授法は、6歳以上の男女に口分田を与えるという法律でしたが、子供が多すぎて与える土地がなくなってしまいます。
そこで新しい土地を開墾する必要が出てきますが、土地を開墾するには非常に大きなエネルギーを必要とします。
農民たちの土地の開墾を促すため、墾田永年私財法を制定しました。(743年です)
この墾田永年私財法によって、新しく開墾した土地は、 永続的にその土地を開墾したものの私有地となります。
この法律に反応した有力貴族たちは、農民たちを使って私有地を広げてきます。この土地のことを荘園と言います。
また社会不安を鎮めるために、当時の天皇である聖武天皇は、 全国に国分寺国分尼寺を建立します。
さらにその総本山として、 奈良に東大寺を建造しました。
奈良時代の天皇に関しては、聖武天皇で覚えておいてください。
聖武天皇は仏教の力を借りて国家をまとめようとしました。これを鎮護国家思想と呼びます。
また、 東大寺が作られた少し後に、鑑真が遣唐使として行ってきます。 鑑真は何度も航海に失敗し、そのストレスから失明してしまいました。
それでも日本に来てくれた鑑真に対して、唐招提寺を設立します。
以上から答えは、
600年ごろ 十七条の憲法
645年 大化の改新
班田収授法発令
701年 大宝律令
708年 和同開珎鋳造
710年 平城京遷都
743年 墾田永年私財法
750年頃 鑑真来日
でした。