世界史並び替え 後半

投稿者:池畠 悠 所属塾:みやうち塾 閲覧数:221


投稿日時:2024年1月31日15:12

最終閲覧日時:2025年7月4日17:46


こだなか塾



今回は、世界史の範囲を並べ替えます。


次の出来事を時代順に並び替えてください。


フランス革命
名誉革命
ピューリタン革命
南北戦争
独立戦争
スペインの無敵艦隊敗れる
ナポレオン帝政
アヘン戦争


解説

まず、今回の範囲で最初に来るのは、スペインの無敵艦隊が敗れる、です。


スペインの無敵艦隊は、イギリスに敗れるのです。この時のイギリスの国王はエリザベス1世です。

エリザベス1世は、絶対王政を行なっていました。絶対王政とは、王が絶対的な権力を持ち、 政治のあらゆることを決めていく仕組みのことです。


ヨーロッパの各国では、この絶対王政がしかれていましたが、17世紀からそれが変わってきます。

まず、ルネサンスや大航海時代、宗教改革によって、キリスト教に対する信頼が揺らいできます。

例えば、 コロンブスがアメリカ大陸に到着したことで地球が丸かったことが分かったり、ガリレオの地動説によって、 地球が宇宙の中心ではないことが分かったりして、 聖書に書いてあることよりも、科学を重視する人が増えてきます。

この、人間の理性に重きをおき、その理性が作り出した科学によって物事を判断していく、という考えを啓蒙主義といます。


この啓蒙主義の広まりにより、自然科学がさらに発達します。 そして、国家の仕組みに対しても、王様が絶対的な権力を持っている状況に疑問を持つようになりました。


イギリスでは1642~1649年、 清教徒(ピューリタン)革命が起きます。クロムウェルが、 ピューリタン(キリスト教、プロテスタントのカルヴァン派です)の農民たちを率いて、革命を起こします。

これが成功し、イギリスは共和制となります。

しかし、 クロムウェルの死後、 再び絶対王政に戻ってしまいます。

そのような状況下、1688年に、名誉革命が起こります。

この革命では、貴族たちが議会を開き、 その議会の結論に従って国王を追放します。この時誰も血を流さずに革命を成し遂げることができたので、非常に名誉なことという意味で名誉革命と呼ばれます。

名誉革命の後、権利の章典が発表され、 議会政治や立憲君主制といった、近代国家の大元となる考えがイギリスの国家運営に採用されています。


その後フランスでも、 革命が起こります。

フランスではルイ14世の頃、 絶対王政の全盛期でした。

絶対王政に対する国民の不満が溜まっていく中、1789年に、フランス革命が起こります。

フランス革命は世界初の市民革命で、国民議会という一般市民からなるメンバーたちが中心となって革命を起こしました。

バスティーユ牢獄の襲撃から始まり、最後はマルセイユ宮殿を攻めます。

そしてルイ16世と王妃マリーアントワネットを斬首します。(ギロチンということです。)

その後フランス人権宣言が発表されます。

このフランス人権宣言では、自由や平等といった、基本的人権の考えが書き残されています。

この後フランスは、共和制国家として運営されますが、1800年頃にナポレオンが政治の実権を握ります。

それとナポレオンは、皇帝となって、フランスは再び王政国家になります。

しかしナポレオンは、多くの反対反乱に合い失脚し、フランスはその後共和制になります。



またこの少し前ですが、 アメリカで独立戦争が起こります。

もともとアメリカはイギリスの植民地でした。

そのためイギリスに対して税金を払っているのですが、イギリスの議会に対して代表を送る権利はありませんでした。

税金は払うのに参政権はない。

この状況を、「代表なくして課税なし」と批判しました。

ボストン茶会事件では、イギリスに茶を輸出していた清の貿易船を襲撃します。

そして1775年、ワシントンが13の州を率いて独立戦争を起こします。

この戦争に勝利したアメリカは、独立宣言を発表し、アメリカ合衆国を作ります。

アメリカ合衆国では、 三権分立の強い合衆国憲法が作られます。

その後アメリカは経済的にも大きく進歩していきます。

しかし、工業化が進んだ北部と、工業化が遅れてしまい経済的に貧しい南部という格差が生まれてしまいます。

南部では、綿花をプランテーションで栽培していましたが、その際多くの黒人奴隷が使われていました。

これをやめさせるため、アメリカの大統領リンカーンは、北部の州を率いて、南部と戦争を起こします。(南北戦争、 1861~1865)

この戦争に北部が勝利し、アメリカは一つにまとめられていきます。

最後に、名誉革命の後のイギリスをみていきます。

名誉革命の後、イギリスでは産業革命が起こります。

産業革命というのは、 蒸気機関の発明により、人が行なっていた作業が機械によって行われるようになり、世の中の仕組みが大きく変わった経済的・社会的な革命です。

産業革命の結果、石炭を利用し、電気を使って大きなエネルギーを作り出せるようになりました。
この革命によってイギリスの経済は大きく発展し、最初は軽工業から、そして重工業に至るまで、生産性が大きく向上します。

この結果イギリスは、「世界の工場」と呼ばれるまで技術力を発展させ、 植民地を拡大してました。

(イギリスは、 アフリカ、 東南アジア、アメリカの至る所に植民地を持っていました。さらにインドの植民地化を進めており、 1857年のインドの大波乱の後には、ムガル帝国を滅亡させています。)

しかしこの産業革命によって、社会の格差が広がってしまいます。

産業革命の結果、機械や土地といった「資本」を持つ資本家が圧倒的に強くなってしまい、その資本家に従うしかない労働者を搾取するようになってしまいます。

この状況を、 カールマルクスは資本主義として批判しました。

そして、 この階級格差をなくすため、資本を全て国が所有し、国民全員が労働者として平等に過ごしていける社会主義国家の結成を目指しました。

このように、資本主義の浸透により格差は生まれましたが、イギリスは最強の軍事国家となりました。

そして、清とアヘン戦争を起こします。

アヘン戦争のきっかけは三角貿易です。

イギリスは清から茶を大量に輸入していましたが、この貿易に伴う銀の輸出なんとか抑制と考えました。

この銀の流出の削減のために、インドを利用し、清に流れてしまった銀を回収することを思いつきます。

まずイギリスは、 植民地であるインドに、アヘンを密輸させます。アヘンは麻薬です。

そのためアヘンを吸った清の人々は、アヘンを買うために多くの銀を持ち出します。

そして銀がインドに流れれば、植民地であるインドに大量の綿製品を売りつけ、銀をイギリスで回収できると考えたのです。

これに対して、当然清は怒ります。

そしてイギリスに対して、 アヘン戦争を起こします。

しかし、圧倒的な軍事力を持つイギリスに敵うはずもなく、清は破れてしまいます。

その後、 不平等条約である南京条約を結ばされて、香港をイギリスに奪われてしまいます。

この後、中国国民の清政府に対する不満は高まり、太平天国の乱が起こったりします。(リーダーの洪秀全も覚えておいてください。)

以上から答えは、

1588年 スペインの無敵艦隊敗れる

1642~1649年 ピューリタン革命

1688年 名誉革命

1775年くらい 独立戦争

1789年 フランス革命

1805年くらい ナポレオン帝政

1840~42年 アヘン戦争

1861~65年 南北戦争

でした。
出来事の時間軸もきちんと確認しましょう。