歴史並び替え 室町から戦国

投稿者:池畠 悠 所属塾:みやうち塾 閲覧数:201


投稿日時:2024年2月1日15:48

最終閲覧日時:2025年7月4日10:58


こだなか塾



今日は、室町・戦国・江戸の流れをまとめます。

次の出来事を時代順に並べ替えてください。



山城国一揆

桶狭間の戦い

正長の土一揆

南北朝統一

関ヶ原の戦い

本能寺の変

鉄砲伝来

バテレン追放令

では、今日もそれぞれの出来事を並び替えていきます。

まず、今回の出来事で一番最初に来るのは、1392年の南北朝統一です。

1392年、足利義満が南北朝を統一しました。

ここからが室町時代ですが、(1335年に足利高氏が征夷大将軍になった時が室町時代という考え方もあります。)南北朝時代は一揆が多く起こった時代でもありました。

1428年、農民たちが、借金の帳消しを要求する、徳政一揆を起こします。

当時、金融業(お金を貸す銀行のような仕事です。)を営んでいた土倉や酒屋を襲撃します。

これは農民たちが起こした初めての一揆でした。
「正長」という元号の時代に起こったので、正長の土一揆と言います。


その後も、山城の国一揆や、加賀の一向一揆といったように、農民や身分の低い武士(地侍)たちが一揆を起こします。

山城の国一揆は、 河内・山城国(今の京都)の領主であった畠山氏の争いによって苦しい生活を強いられていた地侍が中心となって起こした一揆です。

農民たちも加わり、 この一揆は成功します。

また加賀(今の石川県)でも一向一揆が起こります。

一向一揆というのは、一向宗(仏教の家の浄土真宗の一派です)が起こす一揆のことで、農民たちが中心となって行われました。

この一揆は蓮如が中心となって行われた一揆で、1474年から1580年まで、一向宗が国を支配ししました。

(1488年に代わりの守護を擁立するまでは百姓だけで政治を行っていたので、百姓の持ちたる国と言われていました。)

この加賀の一向一揆は最終的には織田信長によって鎮圧されてしまいますが、戦国時代最強であった織田軍団を最も苦しめたのは一向宗であったとも言われています。

このような一揆が広がった背景として、応仁の乱(1467年~1477年)の後に広まった下克上の風潮も関係しています。

(山城の国一揆も、応仁の乱が波及して引き起こされた、畠山氏の中の内部分裂でした。)

さらにこの頃、ヨーロッパから宣教師たちがやってきます。1500年になると、ヨーロッパでは宗教改革が起こり、プロテスタントという新しい宗派ができました。

プロテスタントに対抗して、信者を獲得するため、カトリック教会はイエズス会を組織し、他地域のキリスト教信者を増やそうとしました。

この流れの中で日本にも宣教師たちが行ってきます。
宣教師たちとの交流の中で、1543年に鉄砲が種子島に伝来します。
さらに1549年にはキリスト教が伝わります。 この時の宣教師がフランシスコザビエルです。


この世に日本は、中央集権的な機関がない混乱の時代に陥っていました。

応仁の乱以後の混乱の状況を反映し、当時を戦国時代と呼びます。

この戦国時代の武将の中で、最も有名なのが織田信長です。

信長を一躍有名にしたのが1560年の桶狭間の戦いです。

この戦いで信長は兵力25000を誇る今川義元の軍隊と戦います。対する信長の兵力は5000人しかおらず、圧倒的に不利な状況でした。

しかし、 今川軍が狭い桶狭間で休んでいるところを奇襲し、 今川軍を破ります。

狭い桶狭間では、人数の優位性が奪われてしまい、機動力ある信長軍に勝つことが出来ませんでした。


その後信長やったこととして下記のようなことがあります。

戦い
1570年 姉川の戦い
1575年 長篠の戦い
1570年代~ 仏教勢力との闘い
・比叡山延暦寺焼き討ち
・石山本願寺(大阪)を降伏
・一向一揆を鎮圧


政治
楽市・楽座
交通網の整備・関所を廃止
検地を行い軍役を課す
堺市を征服 → 軍用金を課す
1573年 足利義昭を追放

文化
安土城建造 → 安土・桃山文化と呼ばれます。(桃山は、秀吉が建造した大阪城が桃山城と呼ばれることから名づけられました。)
南蛮貿易 → ヨーロッパの各国との貿易です。



信長は戦術だけではなく、政治・外交にもとても優れていました。

もう天下統一まであと一歩というところで事件が起こります。

それが1582年の本能寺の変です。

中国地方を制圧しようと考えていた信長は、部下の 明智光秀の謀反にあってしまいます。 そして本能寺で自害し天下統一は果たされませんでした。

この信長の後を継いだのが部下の豊臣秀吉です。

秀吉は中国地方の毛利氏を攻めに向かっていましたが、和睦をし、すぐに帰ってきます。

そして明智光秀を山崎の戦いにて倒します。

その後秀吉が信長の天下統一事業を受け継ぎまず。

秀吉は大阪城を築き、大阪を拠点として各地の大名を征服しに行きます。

九州の島津氏、東北の伊達氏も支配下に入ります。1590年には、北条氏を小田原城にて滅ぼし、天下統一を成し遂げます。

その後秀吉が行ったことして、下記のようなことがあります。

内政
・太閤検地 → 全国の田畑を検地し、その生産量を石高で表すようにしました。そして実際に土地を耕作している農民を本百姓とし、土地の情報と合わせて検地帳に登録します。
この太閤検地により、本百姓は土地を保証されますが、代わりに年貢を支払うことを義務付けられます。
武士は、与えられた領地の石高に応じて軍役を負担しました。
また、この太閤検地によって、荘園の領主である公家や寺社は、持っていた土地を失うことになりました。

・刀狩 → 百姓が一揆を企てることを防ぐために、百姓から武器を取り上げました。
さらに居住区も、城下町には武士、その生活を支える町人が町に、百姓は村に住むように決まりました。

この太閤検地と刀狩によって兵農分離が進められました。


外交
・バテレン追放令
秀吉は、長崎が教皇領としてイエズス会に寄進されていたことを知ると、宣教師の国外追放を命じました。これをバテレン追放令とよびます。しかし布教と貿易は別と考え、南蛮貿易は歓迎し、貿易を邪魔する倭寇取り締まりました。(実はこの当時まだ倭寇はいた、ということを覚えておいてください。教科書にも書いてあります。)

・朝鮮出兵
秀吉は明やインドの支配を目指し、朝鮮出兵を2度行います。
1度目は、 1592円の出兵で、これを文禄の役と呼びます。しかし、義兵と呼ばれる民衆の激しい抵抗や、李舜臣率いる水軍、さらに明の援軍によって苦しめられ、 失敗に終わります。

2度目は1597年で、慶長の役と呼びます。 しかし、この慶長の役の最中に秀吉が病死してしまい、日本軍は撤退します。

この朝鮮出兵によって豊臣政権への不満が高まり、没落を早めてしまいました。

秀吉の死後、徳川家康は関ヶ原の戦いを起こし、秀吉の部下の石田三成を倒します。(石田三成は豊臣秀吉の子の豊臣秀頼を立てて徳川家康と戦います)

そして1603年に家康が征夷大将軍となり、江戸幕府が開かれるという流れです。


以上から答えは、
1392年 南北朝統一
1428年 正長の土一揆
1485年 山城国一揆
1543年 鉄砲伝来
1560年 桶狭間の戦い
1582年 本能寺の変
1587年 バテレン追放令
1600年 関ヶ原の戦い

でした。

まずは流れを大雑把に復習し、細かいところまで言えることを目指しましょう。