歴史並び替え 戦後

投稿者:池畠 悠 所属塾:みやうち塾 閲覧数:328


投稿日時:2022年9月4日21:44

最終閲覧日時:2024年4月25日13:20


みやうち塾 こだなか塾



次の語句を、時代順に並べ替えてください。

新安保条約

日中共同声明

東京オリンピック(第一回)

日ソ共同宣言

沖縄返還協定


プラザ合意

湾岸戦争

日韓基本条約




今回は、第二次世界対戦後の出来事の流れを追っていきます。


まず第二次世界対戦後の流れとして重要なのは、日本が GHQ によって統治されていた状態から、朝鮮戦争の影響で独立・経済復興を果たし、その後高度経済成長を続けていくということです。


朝鮮戦争ターニングポイントとして、敗戦国であった日本は、経済的にも、そして国際的な地位においても大きく進歩しています。


朝鮮戦争の後、「反共の防壁」(共産主義を止めるための壁という意味です。)としての日本の役割の重要性に気付いたアメリカは、非軍事化・民主化という政策を転換して、日本の独立を早めます。


そこで日本と、 サンフランシスコ平和条約を結び、日本の独立が達成されます。


朝鮮戦争の特需景気で経済的に復興した日本は、今度は国際社会に復帰を目指します。


国際社会に復帰というのは具体的に、国際連合に加盟することです。


アメリカやイギリスフランスといった資本主義陣営は、日本の国際連合の加盟を支持します。

しかし、社会主義陣営の国からすれば、日本には国際連合に加盟しかありません。

そこで、五大国の一つであるソ連は、拒否権を行使し、日本の国際連合の加盟に反対していました。


そこで日本は、 まずはソ連との国交回復を目標とし、1956年、日ソ共同宣をもって、ソ連との国交を回復。

国際連合に加盟することができました。



その後日本は経済的に発展してきます。鳩山一郎首相の、「 もはや戦後ではない」という発言は有名ですね。

1960年代初頭には、池田勇人 内閣が、「所得倍増計画」を掲げます。(今の岸田首相 の所得倍増計画は、この池田内閣を真似しています。)


その後佐藤栄作内閣が組閣されます。


この佐藤栄作内閣の下で日本の国際的な復興は大きく進展します。

1964年 東京オリンピック開催

1965年  日韓基本条約を結び、韓国との国交回復。

1968年 小笠原諸島返還

1972年 沖縄返還協定にて、沖縄返還


ここまでを成し遂げます。

佐藤栄作内閣の後を継いだ田中角栄内閣は、1972年に日中共同声明を、中国政府とともに発表します。


これにて中国との国交も回復します。


ここまで日本の高度経済成長と国際社会への復帰をまとめました。


しかし、 1973年のオイルショックをきっかけに、高度経済成長は終わり、低成長時代に突入します。(低成長とはいえ、年間5%程度は成長しているので、今から考えれば決して悪くはないです。)


また、 1971年には、ドルショックが起こっています。このドルショックによって、1ドル=360円の固定為替相場制から、変動為替相場制( ドルと円の比率が、需要によって変わります。)に移行し、日本は総体的に、円高になります。

円高というのは、1ドルに対する円の価格が上昇することです。

つまり、1円あたりのドルの価格は下がります。(ここはまた詳しく説明します。)

このドルショックによる円高によって、日本は輸出に不利になり、貿易の売上が減ります。

また先ほど書いたオイルショックによって、製品を開発する原価は上昇します。


売上減少プラス原価の上昇、ということで、貿易による利益が減ってしまったため日本の高度経済成長は終わってしまったのです。


この後は1980年代後半からのバブル景気で見かけ上の発展をしますが、バブル崩壊後は、経済的にはほとんど成長しない時代に突入します。(今もそうなってます。)


今回の選択肢はこれに加えて、新安保条約、プラザ合意、湾岸戦争とあるのでそれぞれ解説します。

まず、 新安保条約は、岸信介首相が日米安保条約を改正して結んだものです。

日米安全保障条約は、アメリカ軍の日本への駐在を認めたり、 アメリカ軍が核兵器を日本に持ち込む可能性があるため非核三原則に反する可能性があるなどの理由から、更新することを反対する人が多い条約でした。


実際、条約を更新する際にも、国会でも多くの反対意見があったのですが、岸信介首相がそれを押し切り、新安保条約を結びます。

この新安保条約には、思いやり予算と言って、米軍の費用負担を、日本が肩代わりするものもあり、批判されています。


次にプラザ合意に関してです。
ちょっと詳しく書くので、若干高校受験の範囲を超えますが、公民の理解も深まりので知っておいて損はないと思います。

このプラザ合意は、アメリカと主要国( 日本・アメリカ・イギリス・ドイツ・フランス)で結ばれた合意のことで、ドル安を進めることが決められました。

(場所がニューヨークのプラザホテルだったのでプラザ合意と呼ばれています。)



アメリカは、 ベトナム戦争への出費などによる国内財政の赤字に加え、貿易でも赤字になっており、財政を改善する必要がありました。

そこでレーガン大統領は、貿易赤字の原因になっているドル高の傾向を是正するため、プラザ合意を求めたのです。

これによって各国は、自国の通貨の切り上げを行います。(日本の場合だと円高になります。)

先ほど、ドルショックの話を書きましたが、円高になると輸出に不利になります。

このプラザ合意でその傾向がさらに強まり、日本の貿易による経済成長は鈍化して行きます。


実はこのプラザ合意の結果、経済成長が弱まったため、国内への投資を増加させたのですが、これがバブル景気のきっかけになったとも言われています。

バブル景気は、不動産への投資の高騰が原因ですが、この不動産投資は融資をしながら行われています。

融資というのは借金のことですが、お金を借りると利子がつきます。

プラザ合意の後、 プラザ合意の後日本政府は、利子率を下げます。

この低い利子率がバブル景気をもたらすきっかけになったということができるのです。



最後に、湾岸戦争で説明します。

湾岸戦争は、1990年にソ連が解体された後、 イラクがクウェートに侵攻して起こります。

イラクの大統領は フセイン大統領 です。


この湾岸戦争に対して、国連は、 平和維持活動として、多国籍軍を派遣します。この多国籍軍はイラク軍を圧倒し、その強さを見せつけました。


このとき日本も、多国籍軍の後方支援への参加を求められますが、憲法的には軍隊を派遣することができません。

経済的な支援を行いますが、人的支援がないため、国際的に評価されませんでした。


そこで、PKO 協力法という法律を作り、(湾岸戦争時は廃案になりました)国会で承認、この法律により、戦争時の人的支援が可能になります。


(ちなみに、この法律は、2015年には平和安全法制が成立し、武器の使用も可能になってます。)


以上から、答えは、

1956年 日ソ共同宣言

1960年 新安保条約

1964年 東京オリンピック(第一回)

1965年 日韓基本条約


1972年 沖縄返還協定

1972年 日中共同声明


1985年 プラザ合意

1991年 湾岸戦争

でした。

流れをしっかり理解しましょう。