歴史並び替え 明治外交編

投稿者:池畠 悠 所属塾:みやうち塾 閲覧数:188


投稿日時:2024年1月24日17:13

最終閲覧日時:2025年7月5日11:26


こだなか塾



今日は、朝鮮と日本 の関係を中心に並べ替えをしたいと思います。


三国干渉

日朝修好条規

韓国併合

韓国統監府

甲午農民戦争

江華島事件


征韓論争



今回の選択肢で最初に来るのは、 征韓論争です。征韓論争は、 韓国を征服するかどうかを話し合った論争です。


大政奉還が終わった後、国内では近代化がなされていましたが、その際、韓国を征服しようというグループ(征韓論派)と、国内統治を優先しようと言うグループに分かれて、論争が繰り広げられていました。


韓国を征服しようというグループには、西郷隆盛や板垣退助がいます。

西郷や板垣は、

・四民平等により、 職を失った武士たちに、戦いの場という形で仕事を与えること

・植民地を増やすことで日本の国益を増加させること

この2点を目標に、韓国へ出兵することを主張します。

一方、国内統治を優先しようというグループには、大久保利通と木戸孝允がいます。国内統治派は、まずは日本の国力を上げることが最優先で、海外に手を出すのは時期尚早だと主張しました。

岩倉使節団が海外へ出張したこともあり、欧米列強国と 日本との国力の差を強く実感していたため、何よりも国内の産業育成と仕組みの近代化が必要だと考えていたのです。

この論争は結局、国内統治派が勝利します。

破れた板垣と西郷は、政界を去ります。

板垣はこの後、 自由民権運動を進めていきます。

西郷隆盛は、論争に敗れた後も、明治維新を成し遂げるために 戊辰戦争で協力してくれたにも関わらず、仕事を失ってしまった武士たちを救うために、明治政府に対して戦争を起こします。


この西南戦争(1877年)で、西郷隆盛は戦死します。

勝った国内統治派は、この後国内統治を進めるかと思いますが、 政策を転換します。江華島事件を起こし、朝鮮に対して不平等条約である日朝修好条規を結ばせるのです。

江華島事件は、日本軍が、江華島近くに軍艦を送り込み朝鮮を挑発したことで起こります。


軍艦に対して脅威を抱いた朝鮮の現地の人は、軍艦に対して攻撃をしてきます。

これを朝鮮政府の責任とし、日朝修好条規(1875)を結ばせたのです。


日朝修好条規は、 日本の領事裁判権が認められ、朝鮮には関税自主権がないという不平等な内容でした。

日米修好通商条約で日本がアメリカにされたことを、朝鮮に対してもやり返すという形になっています。


この日朝修好条規を結んだ後、日本は朝鮮をめぐって、清と対立します。


1895年、朝鮮で甲午農民戦争が起こると、日本はこの戦争を止めるために出兵します。

この後、 朝鮮政府に呼ばれてきた清と、日本軍が戦争を起こします。(日清戦争)

この日清戦争の後で日本は、下関条約にて朝鮮の独立を認めさせ、清と朝鮮との関係を断ち切り、朝鮮を日本の植民地にすることを目指します。

しかし、三国干渉があり、下関条約で手に入れた遼東半島を清に返還したので、日本の朝鮮における影響力は弱まります。


この後、日露戦争で、朝鮮における優越権、 遼東半島の権益を取り戻した日本は、一気に大韓帝国(当時の朝鮮です)の植民地化を進めます。

1905年に、韓国統監府を設置し、 韓国の外交権を奪います。初代統監には伊藤博文が任命されます。



韓国統監府に対して、朝鮮で義兵運動が起こります。 統監府が設置されたことで、韓国の軍隊は解散されていました。軍隊を辞めさせられた軍人達は、私的に集まり、義兵運動を展開します。しかしこれは、 日本軍によって鎮圧されてしまいます。

その後、 伊藤が、ハルビン駅で安重根に暗殺されると、日本は朝鮮の内政権を奪い取り、朝鮮総督府設置します。(1910年)

こうして韓国は完全に日本の植民地とされてしまいます。

これを韓国併合といいます。

韓国統監府が外交権を奪い、朝鮮総督府の設置によって内政権も奪われた。


この流れを覚えておいてください。



よって答えは、


征韓論争

江華島事件

日朝修好条規

甲午農民戦争

三国干渉

韓国統監府

韓国併合



日本と朝鮮の関係は、日本の歴史を考える上でもとても重要な関係性です。


きちんと確認していきましょう。