歴史並び替え 古代の流れをサクッと復習!!!
投稿者:池畠 悠 所属塾:みやうち塾 閲覧数:186
投稿日時:2021年12月8日16:17
最終閲覧日時:2025年8月28日19:20
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次の出来事を時代順に並び替えてください。
和同開珎流通
大宝律令
白村江の戦い
大化の改新
密教伝来
平安京遷都
平城京遷都
遣隋使
今回は古代の流れをまとめていきます。
今回の出来事のスタートは、遣隋使です。
遣隋使は聖徳太子が派遣し、初代遣隋には、小野妹子らが選ばれています。
聖徳太子で覚えておいてほしい年号は、600年頃です。
聖徳太子は推古天皇の摂政として政治の実権を握ります。
その後、その後憲法十七条や冠位十二階の制を設定し 、天皇中心の中央集権的な国づくりを目指します。
聖徳太子は文化面でも優れており、法隆寺を建立します。この法隆寺を中心とした文化を飛鳥文化といいます。
しかし、聖徳太子の死後、蘇我氏が暴走を始め天皇中心の国家基盤が揺らぎます。
蘇我馬子・入鹿親子は、物部氏を倒したりと、他氏排斥運動を行います。そして権力を掌握し、天王ですら、手を出せない存在になっていました。
この状況を打破するため、中大兄皇子は、 中臣鎌足らと組んで、蘇我氏暗殺のクーデターを起こします。 これを乙巳の変と言います。
この乙巳の変で蘇我氏の暗殺に成功した中大兄皇子は、天皇中心の国づくりをしていきます。
中大兄皇子が行った政策は主に二つです。
一つ目は、租・調・庸制を整えたことです。
租・・・班田収授法(6歳以上の男女に口分田を支給し、死後回収するという法律)に基づき口分田を分配。収穫量の3%を税金として納めさせた。
調・・・地域の特産品を納税させた。
庸・・・畿内の警備といった、労働を課した。
雑徭・・・地方国衙での労働を課した。
防人・・・白村江の戦い以後にできた労役。九州の大宰府の警備を命じた。
二つ目は、国・郡・里制です。
税を効率よく回収するため、国・郡・里制をしきます。
まず、機内に入る中央の貴族を、地方に国司として派遣します。地方に派遣された国司は、地方の有力な豪族たちを郡司に任命します。
そして郡司たちは、自分の領土内の有力な農民たちに声をかけ、 彼らを里長として任命します。
この里長たちが税を直接回収し、そのを郡司が束ね、国司に提出。最後に国司が一定の税金を天皇に収める、という流れで税の徴収を行いました。
この二つの制度をまとめて、「公地公民」と呼びます。
こうして天皇を中心とした、中央集権的な国家の基盤が作られます。
この乙巳の変から、公地公民による一連の改革を、大化の改新と言います。
年号としては645年を覚えておいてください。
中大兄皇子は、その後、海外に進出します。
朝鮮半島で力を持った新羅と手を組んだ唐が、日本と昔からつながりのある百済を倒そうとします。
百済は日本に、渡来人を通して金属器を伝えたり、仏教を伝えたりしていました。(538年)
こうしたつながりがあったため、日本は百済を守るために出兵します。
しかし、唐と新羅の連合軍に惨敗します。(663年 白村江の戦い)
このあと唐が襲撃してくることを恐れた日本は、北九州の海岸線に水城を設置し、さらに防人という役職を作って防備に当たらせます。そして、太宰府を設置し、北九州の護衛を強化します。
この白村江の戦いの頃に、中大兄皇子は亡くなってしまいます。
中大兄皇子は天智天皇と呼ばれます。(天皇は在位中には名前がつきません。在位中は今上天皇という名前で、退位した後に名前がつけられます。)
天智天皇の死後、後継者を巡って争いが起こります。
これが壬申の乱です。
天智天皇の息子の大友皇子と、 天智天皇の弟の大海人皇子が戦います。
勝利した大海人皇子が、天武天皇として即位します。(これも名前がつくのは死後ですが、それを正確に書くと手間になるので、天武天皇と書かくのが一般的です。)
そしてこの天武天皇の後、
684年 藤原京(持統天皇)
701年 大宝律令
708年 和同開珎
710年 平城京遷都
と続きます。
国家として必要な法律、お金、都が整えられていくのです。
(大宝律令の律は、刑法を表し、 令は民法を表します。)
そして710年の平城京遷都からが奈良時代になります。
奈良時代のポイントは人口増加による社会不安の増大でしたね。
この社会不安を鎮めるために聖武天皇は、仏教の力を借ります。
その結果、東大寺を総本山(741年建立)として、全国には国分寺・国分尼寺が作られます。
また人口が増加したことにより、班田収授法が困難になります。 幼い子供の人口が多いため、亡くなった人の土地を回収し配ることが困難になってしまったからです。
そこで、 新しく開墾した土地に関しては、永遠に自分のものにしてもいい、という法律である墾田永年私財法を発布します。
この法律を作ることで、農民たちが自発的に土地を開墾することを目指します。
しかしこの法律に反応したのは貴族で、 貴族たちが飲みたちを使って自分の所有地を広げていきます。
この所有地は後に荘園と呼ばれますが、消炎の増大によって班田収授法がこんなになってしまいます。
こういった状況を受けて桓武天皇は、784年に都を遷都します。(長岡京)
しかし建設に関わるリーダーが死んでしまうといった事件もあり、もう一度都を移動します。
これが平安京です。(794年)
桓武天皇としては他にも、坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命して、蝦夷の征討を行ったことも覚えておいてください。
桓武天皇の以後は天皇中心の国づくりが行われます。840年頃には、醍醐・村上天皇による、延喜・天暦の治も行われます。
しかし荘園を持った貴族が徐々に力をつけていき、他の貴族を排斥した藤原氏が、摂政関白として実権を持つようになります。
この平安時代において、800年ごろに、空海・最澄によって密教が伝えられたことも覚えておいてください。
また密教を覚える際に、750年ごろに遣唐使として日本にきた鑑真とも区別してください。
以上から答えは、
607年 遣隋使
663年 白村江の戦い
645年 大化の改新
701年 大宝律令
708年 和同開珎流通
710年 平城京遷都
794年 平安京遷都
806年 密教伝来
でした。
確認お願いします。